弥生は答えなかった。だが、拒絶もしなかった。それを見て、ずっと張りつめていた瑛介の心も、ようやく少しだけ落ち着いた。彼は彼女の横たわる背中を見つめながら、ふっと唇の端を持ち上げた。別に、同情を引こうとしたわけじゃない。ただ、外は一桁台の寒さで、こんな薄手のシャツ一枚で外にいれば、そりゃ寒いに決まってる。つい最近まで胃出血で入院していた体も、まだ完全には回復していない。体調は確かに万全とは言えない。もちろん、健司に頼めばすぐにでも上着を持ってきてもらえるはずだ。それでも、あの瞬間、瑛介は自分で弥生の元に戻ってみたかった。もし彼女が許してくれればそれでいいと思った。そして、実際に彼は成功した。部屋の中も決して暖かいわけではなかったが、ベッドで穏やかに眠る弥生と子どもたちの姿を見ていると、不思議と心の中がじんわりと温かくなってきた。しばらくして、彼は立ち上がり、白湯を一杯、一気に飲んだ。静かな夜にその飲む音だけが妙に響いた。弥生は夕方から何も口にしておらず、水すら飲んでいなかった。喉も乾いていたが、瑛介に話しかけたくない一心で、目を閉じて我慢していた。どれほど時間が経っただろうか。ついに我慢できなくなった弥生は、静かに目を開き、しばらくの間考えてから、そっと起き上がることに決めた。背後からは何の気配もなかった。おそらく瑛介はまた目を閉じて休んでいるのだろう。そう思って動こうとしたとき、突然、瑛介の声が響いた。「どうした?」その声に驚き、弥生の動きが一瞬止まった。ゆっくりと振り返ると、瑛介が彼女のほうに歩み寄ってきていた。「何かしたいことがあるなら、言って。僕がやるから」「必要ないわ」弥生は即座に拒絶し、自分で起き上がろうとした。だが、体を動かした瞬間、バランスを崩して前に倒れかけたそのとき、瑛介が素早く支えたおかげで、床に落ちることはなかった。彼女の頭上から、静かなため息が聞こえた。「......トイレ?抱えて行こうか?」まるで問いかけるように言いながらも、瑛介はすでに弥生を横抱きにしていた。「何してるの!?降ろして!」子どもたちがまだ寝ていることを考え、弥生は怒りながらも声を抑えて言った。瑛介は淡々と彼女を見つめた。「トイレに行くんじゃないのか?」「いや、違う」
そう言って、弥生は残りの半分の水を飲み干し、コップを瑛介に差し出した。瑛介はにこやかにそれを受け取ったと思ったが、不意にさらっとこう言った。「トイレにも行くか?」またそれ?どうして何度も同じこと聞くの?拒否したかった。でも、悔しいことに......ちょっとその気がしてきた。その瞬間、弥生の顔がぐっと曇った。瑛介はまるで最初から分かっていたかのように、得意げな表情を浮かべて言った。「抱えて連れて行くよ」そのまま、彼女をまたも横抱きにして、洗面所の前まで運んでいった。幸いにも点滴はすでに終わっていて、手も動かしやすく、額の怪我だけならトイレに行くのに支障はなかった。洗面所に入ると、瑛介は便座のふたを開け、トイレットペーパーまで事前に準備してくれていた。すべてを整えた後、彼は静かに言った。「外で待ってる。終わったら呼んで」そう言って、扉を閉めて外に出ていった。弥生はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さな声で呟いた。「......外にいるの?」すぐに、外から瑛介の返事が返ってきた。「いるよ」弥生はついに我慢できなくなった。「もうちょっと離れてくれない?」ただの独り言のように言ったはずが、しっかり聞かれてしまう。そんなに近くにいられては、落ち着いて用を足せるはずがない。少しの間沈黙があった後、ようやく瑛介の声が、今度はずっと遠くから聞こえてきた。「......これぐらいの距離ならどう?」弥生はもう我慢ならず、洗面所の扉を開け、無表情で言った。「もっと遠くに行って」瑛介は素直にうなずき、さらに遠くへと歩いていった。彼の背中が十分に遠ざかったのを確認してから、弥生はようやく扉を閉めた。用を済ませ、手を洗って自分でドアを開けて出たとき、瑛介はまだその場で待っていた。彼女の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。「抱えてもらわなくていい」彼に触れられる直前、弥生は素早く口を開いた。瑛介の動きは止まる。「歩けるか?痛くない?」「いいわ」弥生は冷ややかに彼を一瞥した。「怪我してるのは額よ、足じゃない」病室はそう広くなかったため、話している間にベッドに戻っていた。瑛介は彼女の歩みに寄り添い、弥生がベッドに横たわると、枕を直し、布団をかけ直してく
瑛介はその言葉をを聞いて眉をひそめ、反射的に反論した。「いつ、そんなこと言った?」その反応を見て、弥生はさらに呆れたように笑った。「とぼけないでよ。口に出してないからって、言ってないことにはならないのよ」その言葉に、瑛介はさらに顔をしかめた。あまりにも納得がいかず、彼は自分の立場を説明しようとした。「実際に言ってないなら、どうして僕が言ったことになるんだ?」その問いかけに、弥生の顔には信じられないという表情が浮かんだ。「......瑛介、自分のしたことを認める勇気すらないの?」瑛介は苛立ちを覚えた。「僕が本当に言ってないなら、どうして認めなきゃいけない?」弥生は鼻で笑った。「信じられない。今じゃ自分のやったことすら認められない、そんな臆病者になったのね。言葉遊びで逃げようとしてる」「いつ僕が言葉遊びなんてした?」「してないって言うなら、どうして認めないの?」「やってもいないことを、どうやって認めるんだ?」......もう話しても無駄だ。彼の口から「いらない」と明言されたわけではない。だが、当時の彼の態度と行動がすべてを物語っていた。今さら彼が子どもを欲しいと言い出したのは、ただの責任逃れにしか思えなかった。弥生は、瑛介がこんな人間になってしまったこと自体が、ただただ悲しかった。彼女の表情が冷え込み、目の色が変わったのを見た瑛介は、たまらず彼女の肩を掴み、歯を食いしばるように言った。「......わかったよ。そんなに僕のせいにしたいなら、今ここで認めるよ。僕がやったことにしてもいい。その代わり、教えてくれないか。あの時、いったい何が起きたのか?」その言葉に、弥生の目が一瞬だけ揺れた。認めるのはいい。でも、どうしていまさら「経緯を教えてくれ」なんて言い出すの?まさか......「僕を責めるにしても、何を責められているのか、ちゃんと知らないと納得できない」そう言う瑛介の声には、怒りと苦しさが混ざっていた。彼は、本当に知らないのだ。それはつまり、彼と自分の間には、決定的な誤解があることを示唆していた。弥生が何も言わないでいると、瑛介はさらに低く、静かに言った。「......教えてくれ、お願いだから」弥生はじっと彼を見つめた。そして、しばらくの沈黙の後、ふっ
「本当に届いてないんだ。信じてくれ!そんな大事なこと、もし見てたら返事をしないはずがない。僕たちは子供の頃から一緒に育ったんだぞ。僕がそんなことすると思うか?」「そうよ、私たちは子供の頃から一緒に育った。でも、人って変わるでしょ?ましてや、奈々は君の命の恩人なって、彼女のために変わっでも不思議じゃない」「......僕が彼女のために、君を傷つけるとでも思ってるのか?」その問いかけに、弥生は冷笑を浮かべた。「傷つけてないとでも思ってる?」「......いつからそう思うようになった?」「いつ?そんなことを、今さら君の口から聞くとは思わなかったわ」弥生が黙り込むと、瑛介は自分から切り出した。「もし......離婚のことを言ってるなら、僕には理由がある」弥生は黙ったままだった。「そもそも、僕たちの結婚は、最初から偽装結婚って話だったろ?」その言葉に、弥生は彼を一瞥したが、何も言わなかった。瑛介は続けた。「覚えてないのか? 君、自分で言ったんだ。おばあちゃんの手術が終わったら離婚するって」「それ、私が言ったんじゃない。君が言ったのよ」「忘れたのか? あの日、僕たちが初めて関係を持った五日後の朝、君がそう言ったんだ。おばあちゃんの手術が終わったら、離婚しようって、はっきり口にした」弥生の顔に、一瞬の動揺が走った。確かに、そんな会話をした記憶が、遠い断片のように蘇ってくきた。あの夜、二人が初めてあれをしたが、アルコールの原因もあり、翌朝にはどこか気まずい空気が二人の間に流れていた。特に、それからの数日はずっと、瑛介がどこか冷たかった。耐えかねた弥生は、五日目の朝、彼が一言も話さず顔さえ見せなかったことに耐えきれず、あの言葉を口にしたのだった。「そんなに嫌ならいいわよ。あの夜はただの事故だったって言ったでしょ。そんなに気になるなら、おばあちゃんの手術が終わったら離婚しましょう」あのとき、瑛介が足を止めたのは覚えている。でも、彼の表情を見る間もなく、弥生はそのままバスルームに逃げ込んだ。彼に拒絶された苦しさ、冷たくされた虚しさ、そして、恋人らしく甘えることすら許されない、自分の立場を思い知らされた屈辱があった。瑛介との関係は、あくまで建前の結婚だった。あの美しい婚姻の裏にあるのは、幼馴染と
「当初、私の家が困ってたとき、助けてくれたことには感謝してるわ。でも、私たちが結婚した理由......忘れてないでしょう?おばあちゃんの体調のことがあったから」おばあちゃんのことを口にした瞬間、弥生の胸にきゅっと痛みが走った。最期の別れさえ叶わなかった、あの日の記憶が鮮やかによみがえり、胸を締めつけた。それでも彼女は、静かに深呼吸をして、込み上げる感情を必死に抑えた。「......結局、私たちはお互いの都合のために結婚した。それが取引関係ということ」「本当に、そう思ってるのか?」瑛介は鋭く彼女の瞳を見つめた。「ただの取引だったなら、どうしてお前は出て行くとき、一円も持っていかなかった?どうして、子供を産んだ?」「もう離婚してたのよ?君のお金なんて要らなかったわ。君は私の家の問題を解決してくれた、私はその代わりにおばあちゃんの面倒を見た。それで十分でしょう。お金をもらう理由なんてない。子供を産んだ理由って?笑えるわね。私が無理やり君と寝たと思うの?違うわ。私自身が望んだこと。そして妊娠した。お腹の中に子供ができた。だったら産むかどうかを決めるのは、私の自由よ」「......でも、その子供は僕の血なんだ」「それが何?君の血筋はそんなに高貴なの?私が産んだ以上、子供は私のもの。もし君がそのことで嫉妬してるなら、他の誰かにでも産んでもらえばいいじゃない」話の方向がどんどん逸れた。ようやく、瑛介はそのことに気づいた。彼が知りたかったのは、当時何があったのか、なぜ弥生があれほど強い誤解を抱くようになったのかということだった。だが子供の話になると、弥生は全身に鋭い棘を立ててしまう。無理もない。誤解が解けない限り、彼女は瑛介を許すことも、信じることもできない。彼が「子供を奪う気なんてない」と言ったところで、それは彼女には届かない。今は、彼女を安心させることが優先だ。そう思った瑛介は、ポケットからスマホを取り出し、弥生に差し出した。弥生はその自分のスマホを見て、すぐに受け取った。だが次の瞬間、瑛介は言った。「録音して」「......何のつもり?」「これから話すこと、全部録音しておいて」弥生が動かないのを見ると、瑛介はスマホを取り返し、自ら録音アプリを開いて起動した。弥生はその一連の動きを無言で見つめていた。夜
南市 南市市立病院 「おめでとうございます。あなたは妊娠しています。お子さんはとても元気です」 霧島弥生は手の中の報告書を握りしめて、驚いた顔をした。 妊娠?霧島弥生は喜ばしさと驚きを感じながらも、まだ信じられなかった。 「これからは定期的に再診に来てくださいね。お父さんはいますか?入らせてもらえますか?いくつか注意点を伝えたいのですが」 先生の言葉に霧島弥生は気を取り直して、恥ずかしそうに笑った。「主人は今日来ていません」 「まったく。忙しいからといって、奥さんと赤ちゃんのことを放っておくわけにはいきませんよ」 病院を出て、外はしとしとと雨が降り出した。霧島弥生は自分の小腹を撫でた。 ここには、もう小さな命が宿っている。 宮崎瑛介との子供だ…… スマホが震える気がした。取り出して見たら、宮崎瑛介からのメッセージだった。 「雨が降ってる。この住所に傘を持ってきて」 霧島弥生はそのアドレスを確認した:○○クラブハウス これはどこ?今日は会議があるって言っていたじゃないか? しかし霧島弥生は迷いもせず、宮崎家のドライバーにこの住所まで自分を送らせた。 「もう帰っていいわ」 「奥様、私はここで待ったほうがいいじゃないでしょうか」 霧島弥生はしばらく考え、首を横に振って「結構よ。主人と一緒に帰るから」 宮崎瑛介を探しに来たのだから、彼と一緒に家に帰ろうと思った。 宮崎家のドライバーである田中はすぐに車を動かして去った。 さっきはじめじめと雨が降っていたが、今は激しい雨に変わった。 霧島弥生は傘を差してクラブの入り口へ歩いた。 ここはビリヤードクラブで、内装が高級そうに見えた。霧島弥生は入り口で止められた。 「申し訳ありませんが、会員カードを提示してください」 霧島弥生はしばらく考えて、結局外に出て宮崎瑛介にメッセージを送った。 「着いたよ。まだどのくらいいるの?下で待ってるから」 メッセージを送り、彼女は傘を持って入り口の近くに立って、雨を眺めながら、妊娠の確定診断について考えていた。 彼が出てくる時に直接伝えるか?それとも、彼の誕生日にサプライズプレゼントとして後であげた方がいいのか? 霧島弥生は考え込んでいた。自分が階上にいる人々の笑い者になっているとは思
親友が騒ぐ声の中で、宮崎瑛介は目を伏せて、霧島弥生に素早く返信をした。「傘はいらない。先に帰っていい」このメッセージを受信したとき、霧島弥生は心の中で少し変だと思い、「何か問題があったの?」と返信した。彼女は目を伏せてしばらく待ったが、宮崎瑛介からの返信は来なかった。きっと、本当に忙しいのだろう。霧島弥生は先に帰ると決めた。「ちょっと待って」後ろからかけられた声に彼女は止めた。振り返ると、二人のおしゃれな女性が彼女の前に歩いてきた。その中の背の高いほうが彼女を見下ろして、「霧島弥生なの?」と軽蔑したように尋ねた。相手は明らかに悪意を抱いている。霧島弥生もぶっきらぼうに答えた。「あなたは?」「私が誰かは重要ではないわ。重要なのは、奈々が戻ってきたこと。気が利くなら、宮崎瑛介のそばから離れなさい」霧島弥生は目を見開いた。長い間その名前を聞いてなかったので、その人間がいることすらほとんど忘れてしまっていた。相手は彼女の気分を悟ったようで、また彼女を見下ろして、「なぜそんなに驚いているの?二年間偽の宮崎奥様をしていたから、頭が悪くなったの?本当に自分が宮崎奥様だと思ってるの?」霧島弥生は唇を噛み、顔は青ざめ、傘を持つ指の関節も白くなった。「もしかして、諦めていないの?奈々と争いたいと思っているの?」「こいつが?」霧島弥生はそっぽを向いて、そのまま歩き始めた。二人の女が言うことを聞くのをやめた。二人の叫び声が雨の中に消えていく。霧島弥生が宮崎家に帰ってきた。玄関のドアを開けると、雨に濡れた姿で立っている彼女を見て驚いた執事は「奥様!」と声を上げた。「こんなに濡れて、どうなさいましたか?早くお上がりください」霧島弥生は手足が少し痺れていた。家の中に入るとすぐに、彼女はたくさんの使用人に囲まれ、使用人は大きなタオルで彼女の体を覆い、髪を拭いてあげた。「奥様に熱い湯を入れて!」「生姜スープを作って」霧島弥生が雨に濡れたことで、宮崎家の使用人は混乱していたので、一台の車が宮崎家に入り、長い影が玄関に現れたのに誰も気がつかなかった。冷たい声が聞こえてきた。「どうした?」その声を聞いて、ソファーに座った霧島弥生はまぶたを震わせた。どうして戻って来たのだろう?彼は今、奈々と一緒にいる
宮崎瑛介は彼女を浴室に連れていき、出て行った。霧島弥生はずっと頭を下げていたが、宮崎瑛介が離れると、彼女はゆっくりと頭を上げ、手を伸ばして涙をそっと拭った。しばらくして。彼女は浴室のドアを内側から鍵をかけ、ポケットから妊娠報告を取り出した。報告書は雨に濡れて、字はもうぼやけていた。もともとサプライズとして彼に伝えたいと思っていたが、今は全く必要ない。宮崎瑛介は携帯を手放さない人であることを、2年間彼と一緒に過ごしてきた彼女はよく知っていた。しかし、彼自身がわざわざ彼女にそんなメッセージを送って、笑い者にされるようなつまらないことをするわけがない。きっと誰かが彼の携帯を持ち、そのようなメッセージを送って、笑い者にされたに違いない。たぶん、彼女がバカのように傘を差して下で待っている姿を、上から多くの人が笑っていたのだろう。霧島弥生は長い間その紙を見つめ、皮肉な笑いを浮かべながら、報告書を引き裂いた。30分後。霧島弥生は静かに浴室から出てきた。宮崎瑛介はソファーに座り、長い足を床にのせた。その前にはノートパソコンがあり、まだ仕事に取り組んでいるようだった。彼女が出てきたのを見て、彼は隣の生姜スープを指した。「この生姜スープを飲んで」「うん」霧島弥生は生姜スープを手に取ったが、何かを思い出し、彼の名前を呼んだ。「瑛介」「何?」彼の口調は冷たく、視線はスクリーンから一度も離さなかった。霧島弥生は宮崎瑛介の優れた精緻な横顔とEラインを見つめ、少し青ざめた唇を動かした。宮崎瑛介は待ちきれずに頭を上げて、二人の目が合った。入浴したばかりの霧島弥生は肌がピンク色になり、唇の色も前のように青白ではなく、雨に濡れたせいか、今日の彼女は少し病的に見えて、か弱くて今すぐにでも壊れてしまいそうだった。ただその一瞥で、宮崎瑛介の何らかの欲望が刺激された。霧島弥生は複雑な心持ちで、宮崎瑛介のそのような感情には関心を持たず、自分の言いたいことを考え込んでいた。彼女がようやく言いたいことを言おうと、「あなたは……あっ」ピンク色の唇がちょうど開いたとき、宮崎瑛介は抑えられないように、彼女の顎をつかんで体を傾けながらキスをした。彼の粗い指はすぐ彼女の白い肌を赤らめた。宮崎瑛介の息がとても熱く、燃
「当初、私の家が困ってたとき、助けてくれたことには感謝してるわ。でも、私たちが結婚した理由......忘れてないでしょう?おばあちゃんの体調のことがあったから」おばあちゃんのことを口にした瞬間、弥生の胸にきゅっと痛みが走った。最期の別れさえ叶わなかった、あの日の記憶が鮮やかによみがえり、胸を締めつけた。それでも彼女は、静かに深呼吸をして、込み上げる感情を必死に抑えた。「......結局、私たちはお互いの都合のために結婚した。それが取引関係ということ」「本当に、そう思ってるのか?」瑛介は鋭く彼女の瞳を見つめた。「ただの取引だったなら、どうしてお前は出て行くとき、一円も持っていかなかった?どうして、子供を産んだ?」「もう離婚してたのよ?君のお金なんて要らなかったわ。君は私の家の問題を解決してくれた、私はその代わりにおばあちゃんの面倒を見た。それで十分でしょう。お金をもらう理由なんてない。子供を産んだ理由って?笑えるわね。私が無理やり君と寝たと思うの?違うわ。私自身が望んだこと。そして妊娠した。お腹の中に子供ができた。だったら産むかどうかを決めるのは、私の自由よ」「......でも、その子供は僕の血なんだ」「それが何?君の血筋はそんなに高貴なの?私が産んだ以上、子供は私のもの。もし君がそのことで嫉妬してるなら、他の誰かにでも産んでもらえばいいじゃない」話の方向がどんどん逸れた。ようやく、瑛介はそのことに気づいた。彼が知りたかったのは、当時何があったのか、なぜ弥生があれほど強い誤解を抱くようになったのかということだった。だが子供の話になると、弥生は全身に鋭い棘を立ててしまう。無理もない。誤解が解けない限り、彼女は瑛介を許すことも、信じることもできない。彼が「子供を奪う気なんてない」と言ったところで、それは彼女には届かない。今は、彼女を安心させることが優先だ。そう思った瑛介は、ポケットからスマホを取り出し、弥生に差し出した。弥生はその自分のスマホを見て、すぐに受け取った。だが次の瞬間、瑛介は言った。「録音して」「......何のつもり?」「これから話すこと、全部録音しておいて」弥生が動かないのを見ると、瑛介はスマホを取り返し、自ら録音アプリを開いて起動した。弥生はその一連の動きを無言で見つめていた。夜
「本当に届いてないんだ。信じてくれ!そんな大事なこと、もし見てたら返事をしないはずがない。僕たちは子供の頃から一緒に育ったんだぞ。僕がそんなことすると思うか?」「そうよ、私たちは子供の頃から一緒に育った。でも、人って変わるでしょ?ましてや、奈々は君の命の恩人なって、彼女のために変わっでも不思議じゃない」「......僕が彼女のために、君を傷つけるとでも思ってるのか?」その問いかけに、弥生は冷笑を浮かべた。「傷つけてないとでも思ってる?」「......いつからそう思うようになった?」「いつ?そんなことを、今さら君の口から聞くとは思わなかったわ」弥生が黙り込むと、瑛介は自分から切り出した。「もし......離婚のことを言ってるなら、僕には理由がある」弥生は黙ったままだった。「そもそも、僕たちの結婚は、最初から偽装結婚って話だったろ?」その言葉に、弥生は彼を一瞥したが、何も言わなかった。瑛介は続けた。「覚えてないのか? 君、自分で言ったんだ。おばあちゃんの手術が終わったら離婚するって」「それ、私が言ったんじゃない。君が言ったのよ」「忘れたのか? あの日、僕たちが初めて関係を持った五日後の朝、君がそう言ったんだ。おばあちゃんの手術が終わったら、離婚しようって、はっきり口にした」弥生の顔に、一瞬の動揺が走った。確かに、そんな会話をした記憶が、遠い断片のように蘇ってくきた。あの夜、二人が初めてあれをしたが、アルコールの原因もあり、翌朝にはどこか気まずい空気が二人の間に流れていた。特に、それからの数日はずっと、瑛介がどこか冷たかった。耐えかねた弥生は、五日目の朝、彼が一言も話さず顔さえ見せなかったことに耐えきれず、あの言葉を口にしたのだった。「そんなに嫌ならいいわよ。あの夜はただの事故だったって言ったでしょ。そんなに気になるなら、おばあちゃんの手術が終わったら離婚しましょう」あのとき、瑛介が足を止めたのは覚えている。でも、彼の表情を見る間もなく、弥生はそのままバスルームに逃げ込んだ。彼に拒絶された苦しさ、冷たくされた虚しさ、そして、恋人らしく甘えることすら許されない、自分の立場を思い知らされた屈辱があった。瑛介との関係は、あくまで建前の結婚だった。あの美しい婚姻の裏にあるのは、幼馴染と
瑛介はその言葉をを聞いて眉をひそめ、反射的に反論した。「いつ、そんなこと言った?」その反応を見て、弥生はさらに呆れたように笑った。「とぼけないでよ。口に出してないからって、言ってないことにはならないのよ」その言葉に、瑛介はさらに顔をしかめた。あまりにも納得がいかず、彼は自分の立場を説明しようとした。「実際に言ってないなら、どうして僕が言ったことになるんだ?」その問いかけに、弥生の顔には信じられないという表情が浮かんだ。「......瑛介、自分のしたことを認める勇気すらないの?」瑛介は苛立ちを覚えた。「僕が本当に言ってないなら、どうして認めなきゃいけない?」弥生は鼻で笑った。「信じられない。今じゃ自分のやったことすら認められない、そんな臆病者になったのね。言葉遊びで逃げようとしてる」「いつ僕が言葉遊びなんてした?」「してないって言うなら、どうして認めないの?」「やってもいないことを、どうやって認めるんだ?」......もう話しても無駄だ。彼の口から「いらない」と明言されたわけではない。だが、当時の彼の態度と行動がすべてを物語っていた。今さら彼が子どもを欲しいと言い出したのは、ただの責任逃れにしか思えなかった。弥生は、瑛介がこんな人間になってしまったこと自体が、ただただ悲しかった。彼女の表情が冷え込み、目の色が変わったのを見た瑛介は、たまらず彼女の肩を掴み、歯を食いしばるように言った。「......わかったよ。そんなに僕のせいにしたいなら、今ここで認めるよ。僕がやったことにしてもいい。その代わり、教えてくれないか。あの時、いったい何が起きたのか?」その言葉に、弥生の目が一瞬だけ揺れた。認めるのはいい。でも、どうしていまさら「経緯を教えてくれ」なんて言い出すの?まさか......「僕を責めるにしても、何を責められているのか、ちゃんと知らないと納得できない」そう言う瑛介の声には、怒りと苦しさが混ざっていた。彼は、本当に知らないのだ。それはつまり、彼と自分の間には、決定的な誤解があることを示唆していた。弥生が何も言わないでいると、瑛介はさらに低く、静かに言った。「......教えてくれ、お願いだから」弥生はじっと彼を見つめた。そして、しばらくの沈黙の後、ふっ
そう言って、弥生は残りの半分の水を飲み干し、コップを瑛介に差し出した。瑛介はにこやかにそれを受け取ったと思ったが、不意にさらっとこう言った。「トイレにも行くか?」またそれ?どうして何度も同じこと聞くの?拒否したかった。でも、悔しいことに......ちょっとその気がしてきた。その瞬間、弥生の顔がぐっと曇った。瑛介はまるで最初から分かっていたかのように、得意げな表情を浮かべて言った。「抱えて連れて行くよ」そのまま、彼女をまたも横抱きにして、洗面所の前まで運んでいった。幸いにも点滴はすでに終わっていて、手も動かしやすく、額の怪我だけならトイレに行くのに支障はなかった。洗面所に入ると、瑛介は便座のふたを開け、トイレットペーパーまで事前に準備してくれていた。すべてを整えた後、彼は静かに言った。「外で待ってる。終わったら呼んで」そう言って、扉を閉めて外に出ていった。弥生はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さな声で呟いた。「......外にいるの?」すぐに、外から瑛介の返事が返ってきた。「いるよ」弥生はついに我慢できなくなった。「もうちょっと離れてくれない?」ただの独り言のように言ったはずが、しっかり聞かれてしまう。そんなに近くにいられては、落ち着いて用を足せるはずがない。少しの間沈黙があった後、ようやく瑛介の声が、今度はずっと遠くから聞こえてきた。「......これぐらいの距離ならどう?」弥生はもう我慢ならず、洗面所の扉を開け、無表情で言った。「もっと遠くに行って」瑛介は素直にうなずき、さらに遠くへと歩いていった。彼の背中が十分に遠ざかったのを確認してから、弥生はようやく扉を閉めた。用を済ませ、手を洗って自分でドアを開けて出たとき、瑛介はまだその場で待っていた。彼女の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。「抱えてもらわなくていい」彼に触れられる直前、弥生は素早く口を開いた。瑛介の動きは止まる。「歩けるか?痛くない?」「いいわ」弥生は冷ややかに彼を一瞥した。「怪我してるのは額よ、足じゃない」病室はそう広くなかったため、話している間にベッドに戻っていた。瑛介は彼女の歩みに寄り添い、弥生がベッドに横たわると、枕を直し、布団をかけ直してく
弥生は答えなかった。だが、拒絶もしなかった。それを見て、ずっと張りつめていた瑛介の心も、ようやく少しだけ落ち着いた。彼は彼女の横たわる背中を見つめながら、ふっと唇の端を持ち上げた。別に、同情を引こうとしたわけじゃない。ただ、外は一桁台の寒さで、こんな薄手のシャツ一枚で外にいれば、そりゃ寒いに決まってる。つい最近まで胃出血で入院していた体も、まだ完全には回復していない。体調は確かに万全とは言えない。もちろん、健司に頼めばすぐにでも上着を持ってきてもらえるはずだ。それでも、あの瞬間、瑛介は自分で弥生の元に戻ってみたかった。もし彼女が許してくれればそれでいいと思った。そして、実際に彼は成功した。部屋の中も決して暖かいわけではなかったが、ベッドで穏やかに眠る弥生と子どもたちの姿を見ていると、不思議と心の中がじんわりと温かくなってきた。しばらくして、彼は立ち上がり、白湯を一杯、一気に飲んだ。静かな夜にその飲む音だけが妙に響いた。弥生は夕方から何も口にしておらず、水すら飲んでいなかった。喉も乾いていたが、瑛介に話しかけたくない一心で、目を閉じて我慢していた。どれほど時間が経っただろうか。ついに我慢できなくなった弥生は、静かに目を開き、しばらくの間考えてから、そっと起き上がることに決めた。背後からは何の気配もなかった。おそらく瑛介はまた目を閉じて休んでいるのだろう。そう思って動こうとしたとき、突然、瑛介の声が響いた。「どうした?」その声に驚き、弥生の動きが一瞬止まった。ゆっくりと振り返ると、瑛介が彼女のほうに歩み寄ってきていた。「何かしたいことがあるなら、言って。僕がやるから」「必要ないわ」弥生は即座に拒絶し、自分で起き上がろうとした。だが、体を動かした瞬間、バランスを崩して前に倒れかけたそのとき、瑛介が素早く支えたおかげで、床に落ちることはなかった。彼女の頭上から、静かなため息が聞こえた。「......トイレ?抱えて行こうか?」まるで問いかけるように言いながらも、瑛介はすでに弥生を横抱きにしていた。「何してるの!?降ろして!」子どもたちがまだ寝ていることを考え、弥生は怒りながらも声を抑えて言った。瑛介は淡々と彼女を見つめた。「トイレに行くんじゃないのか?」「いや、違う」
「見守ってくれなくていい」弥生のその一言に、瑛介は薄い唇をきゅっと結び、しばらく彼女を見つめていたが、やがて黙って立ち上がり、部屋を出ていった。それが気のせいだったのか、どうにも言い切れないが、瑛介が最後にこちらを見た視線には、まるで傷ついたような寂しさがにじんでいた気がした。そう思った瞬間、弥生の中に再び怒りがこみ上げてきた。......何に傷ついてるの?怪我をしてベッドに寝かされているのは自分であって、彼じゃないだろう。彼がしょんぼりする理由なんて、どこにもない。病室の扉が閉まる音とともに、瑛介は出ていった。弥生はゆっくりと体を横に向けた。傷口はまだ少し痛んだが、子どもたちの方を向く側に身をひねり、そっとその姿を見つめた。あの二人は、何の警戒もなくすやすやと眠っていた。弥生がそばにいるから安心しているのか、それとも病室にいるのが瑛介だからなのか。額の傷の鈍い痛みもあり、それ以上余計なことを考える気力もなかった。気づけば、弥生の意識は再びぼんやりと薄れていった。だが眠りは浅く、意識はときおり浮かんでは消え、完全に休まってはいなかった。ときどき、病室の外にいるはずのあの男の顔がふと脳裏をかすめた。けれど、すぐに理性がその想いを打ち消す――今さら悩んだところで、もうどうにもならないのだ。そんな状態のまま、どれほどの時間が過ぎただろうか。弥生の耳に、病室の扉が静かに開く音が届いた。その音は本当に微かで、もし彼女が完全に眠っていたら、きっと聞き逃していたことだろう。......もう出て行ったはずなのに、また戻ってきた?背を向けていたため、誰が入ってきたのかは分からなかった。しばらくして、柔らかな足音が背後で止まり、誰かの視線が背中に注がれているのをはっきりと感じた。その視線があまりにも強く、弥生は不快になって眉を寄せ、ついに顔を振り返った。やはり、瑛介がそこにいた。弥生を見て、瑛介の表情が一瞬驚きの色に染まった。彼女が起きていたことは、完全に予想外だったようだ。その表情がすべてを物語っていた。彼は、自分が部屋を出たあと、十分に時間が経ったと思って戻ってきたのだろう。彼女が寝ているうちにそっと戻れば、気づかれないと思ったのだ。案の定、瑛介が最初に発した言葉はこうだった。「..
瑛介の顔には一瞬、こわばった表情が浮かび、こめかみの辺りが彼女の言葉によってぴくりと跳ねた。だが、数秒後には何事もなかったかのように表情を戻し、まるでさっきの動揺を完全に抑え込んだかのようだった。「喉、乾いてない?白湯を持ってこようか?」弥生は無表情のまま、じっと彼を見つめていた。数秒の見つめ合いの後、瑛介は立ち上がり、彼女のために白湯を注ぎに行った。「ちょうどいいと思う、早く飲んで」弥生は差し出されたコップを一瞥し、冷たく拒んだ。「いらない」「ずっと寝たきりだったんだから、まずは喉を潤したほうがいいよ」そう言いながら、瑛介はコップを彼女の唇のそばまで持っていった。弥生は眉をひそめ、顔をそむけた。「いらないって」瑛介はそのままの姿勢を少し保ったが、最終的には水を引き下げた。「じゃあ何か食べる?」その瞬間、弥生は自分でもよく分からないまま、ふっと鼻で笑った。「水もいらない、ご飯もいらない、君の顔も見たくない。もし本当に今夜のことを後悔して、何か償おうとしてるっていうなら、弘次を呼んで」その名前を口にした途端、それまで冷静だった瑛介の表情が一気に険しくなり、考える間もなくきっぱりと彼女を拒絶した。「それは無理だ」「そう、じゃあこれ以上うるさくしないで」そう言うなり、弥生は自らベッドに横たわったが、急に動いたせいで額の傷が引っ張られ、思わず息を呑んだ。それを見た瑛介の冷たい眼差しも一瞬で変わり、慌てて立ち上がって彼女の様子をうかがった。「傷に触れたか?大丈夫?」その声は焦りを帯びていて、手も自然に弥生の肩に添えられていた。さっきの険しい顔とは打って変わっていた。「触らないで、放っておいて」弥生は彼の手を払いのけながらも、痛みに耐えて呼吸を整えていた。「今さらいい人ぶって何なの。君が私の許可なく子供たちを連れて行かなければ、私はわざわざ探しに行く必要もなかった。探しに行かなければ、あの人たちに会うこともなかったし、今夜こんなことになることもなかった」瑛介は黙っていた。確かに彼女の言うとおりだった。自分がもっとちゃんとしていれば、こんなことにはならなかった。彼が、彼女を守れなかったのだ。「ごめん」瑛介は弥生を見つめながら、低くつぶやいた。「全部、僕の判断
病室には、ほのかに灯る小さな明かりが一つだけともっていた。やわらかなその光は目に優しく、弥生が目を開けたときも、不快感を覚えることはなかった。周囲を見回すと、すぐに弥生の視界に一人の姿が映った。瑛介。真っ白になった頭の中に、瑛介の姿を見たとたん、今日の出来事が一気に蘇ってきた。彼女の意識は、おでこを何かにぶつけた瞬間から途切れていて、その後のことはまったく覚えていなかった。今こうして見るに、おそらくあのとき怪我をして、瑛介が病院に連れてきてくれたのだろう。ひなのと陽平は?その二人のことを思い出した途端、弥生は横たわっていられなくなり、慌てて上半身を起こそうとした。そのわずかな音で、ベッドの縁に寄りかかって目を閉じて休んでいた瑛介が目を覚ました。瑛介が目を開けた瞬間、弥生は何の心構えもないまま、その瞳の中に吸い込まれるようにして飛び込んでしまった。しばらくして、瑛介は立ち上がって彼女を支ながら言った。「目が覚めたか?」その声はかすれて低く、まるで徹夜で疲れ切った人のようだった。「陽平とひなのは?」と弥生がまず口にした。その問いに、瑛介は少しだけ動きを止めた。目覚めて最初に口にするのが子供たちのことだなんて、本当に心配していたんだなと察した。「心配しないで、大丈夫だよ」瑛介は顎で彼女の後ろを指し示した。弥生はその方向に首を向けた。柔らかな夜灯の下、二人の子供たちが付き添い用のベッドの上で寄り添って眠っていた。二人の上には厚手の布団が掛けられ、その上には瑛介の上着もかけられていた。灯りの優しさのせいか、弥生の胸には一瞬、時間が穏やかに流れているような錯覚さえよぎった。二人の姿を確認し、彼らがここにいると分かったことで、弥生は心底ホッとした。自分に何かあったとき、子供たちはどうなるのかと心配していたのだ。まさか、子供たちがここまで一緒に来ていたなんて――そして、瑛介がそれを黙って受け入れてくれていたなんて、思いもしなかった。「子供たちのことより、君のほうはどう?」瑛介の言葉が、弥生の意識を現実に引き戻した。二人の無事を確認し、弥生の表情は再び冷たくなった。そして瑛介に冷ややかに問いかけた。「奈々と聡は?」その問いに、瑛介は一瞬驚いたように目を見開いた。「僕が一人で
そして最後の最後、陽平も自分の手をその大きな手の中にそっと置き、その場を離れた。健司が買ってきたものはとても豪華だった。子供たちが何を好むか分からなかったため、あらゆる種類の料理を少しずつ買ってきた結果、テーブルの上はまるでごちそうの見本市のように華やかだった。ひなのは抱きかかえられて椅子に座らされた。テーブルいっぱいに並ぶ料理を見て、目を丸くした。「おじさん、これ全部、ひなのとお兄ちゃんのためのなの?」「そうだよ」そう言いながら、瑛介は白いランチョンマットを二枚取り出し、ひなのと陽平の前に丁寧に敷いた。最近、子供の世話をしてきた瑛介は、二人の好みまではまだ把握していなかったが、子供たちが食事のときに必要とするものについては、健司から学んでいた。だから、さっき買い物をするときに、そういったものも一緒に揃えてきたのだった。ひなのと陽平は座ったまま、忙しそうに動き回る瑛介の姿をじっと目で追っていた。彼を無視したりツンとした態度を取っていたひなのは、次第に警戒心を解いていき、やがて瑛介にあれこれと命令を出すようになった。「おじさん、これ食べたい!」「いいよ」瑛介は彼女の指定した料理をお皿に取り分けた。「あとそれも!」「はいはい」「あの酢豚も!」「任せて」瑛介はほとんど食べず、終始ひなのの「注文」に付き合っていた。陽平にも料理を取ってやっていたが、控えめな性格で、手伝ってもらってもどこか遠慮している様子だったが、それでも「ありがとう」と礼を言った。そんな礼儀正しい二人の姿に、瑛介は感慨深くなった。たった五年で、こんなにも立派に育ったんだな。弥生はどれほどの工夫したのだろうか?そう考えながら、瑛介は弥生に目をやった。彼女はいまだ意識不明のまま、さっきから一度も目を覚ましていなかった。瑛介の眉がかすかにひそめられた。このままあとどれほど眠り続けるつもりなのだろうか。「おじさん!」ひなののはきはきとした声が、瑛介の思考を引き戻した。振り向くと、不満げな顔をしたひなのがこちらを見つめていた。「どうしたの?」その言葉に、瑛介は自分が考え事をしていたことに気づいた。「ごめんね。ちょっと別のことを考えてて、ぼんやりしちゃった。ひなのは何が食べたい?おじさんが取ってあげるよ」ひな